あらすじ

徐福と武田信玄、二人の知られざる関係に浮かび上がる軌跡。武田とは、孫「武」と斉国の国姓「田」が由縁の名族だったのか? 「徐福」この名を聞いて「不老不死の薬を探した人?」とピンとくる方は多いだろう。その徐福の名が歴史書『史記』に現れたのは、秦の始皇帝(嬴政)が、不老長寿の願いを抱いたことにはじまった。秦の天下はわずか15年だった。広大な中華の統一王朝としてのノウハウが、まだまだ乏しかったのかもしれない。嬴政は、秦の政権維持と中華全土の太平の確立のため、自らの延命を望んだ。それ故に不老不死の霊薬への憧れを抱いたのだろう。徐福は始皇帝の命により、遠く東の国にあるという不老不死の霊薬を探しに出た「方士」である。徐福の一行が日本に辿り着いたという話は、見つかっている史跡から考えても、ずいぶん昔からあるようだ。いつから、という具体的な記録は残されていないが、多くの研究者の研究と、各地に残された伝承をつなぐと、徐福の軌跡が浮かび上がる。徐福一行は、蓬莱山と呼ばれた富士山の麓に国をつくったという伝承がある。一説によると、日本に来て「田」氏を名乗ったというが、この理由は徐福出自の国である「斉国」(田斉)、当時の王の姓が田というのが由来と思われる。また一説に、徐福は秘密裏に、滅ぼされつつあった田氏を日本に亡命させるための奇策として、不老不死の霊薬を探すと始皇帝に進言したという。日本の苗字に田のつく古い氏族は、徐福の一行の子孫であるともいわれるそうだ。その徐福がたどり着いたという富士山一帯には、かつて「甲斐国」があった。鎌倉時代から、同地の守護をつとめた武田氏発祥の地である。甲斐源氏の武士・信義が土着して「武田」を名乗り、その子孫、武田信玄は戦国最強の武将の一人として名を馳せ、甲州馬で構成された武田の騎馬隊は諸国を震えあがらせた。始皇帝の秦もまた、馬使いから発展した国と伝わる。甲斐の武田もまた、田がつく姓なのである。その武田の由来は「武田八幡宮」の武田とされるが、もともとの由来は何なのだろうか? また武田信玄といえば「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」いわゆる「孫子四如の旗」が有名だが、孫子は始皇帝より前、春秋時代の人である。本名は孫「武」であり、出身が斉国の大夫で、田氏であるとも伝わる。徐福一行の末裔が「田」を名乗ったという伝承と、「武田」氏をはじめとする名族の興りには繋がりがあるのか? 中國紀行CKRM的視点で、この謎に迫っていこう。

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