あらすじ

かすかに残り続けた、あの「大切な人」の匂いが、彼を呼び覚ました。 ――長い眠りにつきし「息子」は、そっと瞼を開き、疑わしげに部屋の隅々へと視線を彷徨わせる。 感情も、記憶もない。 ただ、目の前に立つその男だけは、触れようと手を伸ばした。 だが腕はあまりにも力弱く、空をなぞるだけに終わる。 彼はただ静かに、崩れ落ちそうなその男を見つめ返すばかりだった。 「ぁ……っ、ひっ……あああああああああ――っ!!」 数日が過ぎると、少年の身体は少しずつ反応を取り戻しはじめた。 まだ歩くには心許ない力しかなかったが、大きな男は黙したまま、手を支え、そっと歩みを教え続けた。 少年は、かつて大切にしていたらしい物を手に取っては、何度も確かめるように指先で撫でた。 やがて一人でも歩けるようになり、館の中を探索しはじめた―― だが、その足取りには空虚が寄り添い、感情も、想いも、記憶の欠片すら宿ってはいない。 身体を保つためには、以前と同じく薬湯の浴槽が必要だった。 肌が冷えきり、硬くなってしまわぬように。 けれど時が過ぎるにつれ、その必要は次第に薄れていく。 温かな薬湯と、そして男の腕に抱かれるひととき―― それだけで、小さな身体は不思議と温もりを保てるようになっていった。 ――たとえ記憶が失われようとも、好きなものだけは変わらない。 少年は相変わらず、あの男に本を読んでもらうことが好きだった。 柔らかな灯りの下、同じ毛布にくるまり、ソファで寄り添う夜。 意味は知らずとも、眠りにつく前に囁かれる「愛しているよ」が、好きだった。 「父さんは……おまえが嫌いだ。」

連載情報

ウェブ小説

配信言語