あらすじ
古い研究棟の外壁、夜にだけ息をする錆色の通気口。外で暮らすハリネズミの「ぼく」は、そこから流れる一定の温度と湿り、そして中に棲むハダカデバネズミの「彼女」の匂いに惹かれ、毎夜通うようになる。草やクローバーを置き、彼女からは巣の白い繊維を受け取る。針の根元にその匂いを塗り込み、触れないまま温度と匂いを交換する二匹。だが通気の奥には常に「群れ」と「女王」の匂いがあり、彼女の訪れは短くなる。
梅雨、彼女が格子で口を傷つけた夜、ぼくは針を極限まで寝かせる角度を身につける。触れないで包む技法。やがて停電の晩、偶然ゆるんだ点検口から二匹ははじめて布越しに近づくが、呼吸に合わせて立った一本の針が彼女の腹に触れ、彼女は波のように退く。許しでも約束でもない、短い声だけを残して。
春、通気口は補修され、匂いは滑らかに均される。彼女の繊維も、ぼくの草の匂いも、もう互いに届かない。ぼくは草むらに新しい寝床をつくり、ただ一本、彼女からもらった古い白い糸を針にしまう。これは失恋だ――外側でつづく恋。音は越えないが、匂いはときどき風に乗って戻る。境界は道であり、防波堤でもある。ぼくは四角い夜明けの光の縁から縁へ歩き、触れられない抱擁の角度を背中に保ったまま、生きていく。