あらすじ
二十二年間、毎晩、壁を殴ってきた。
五歳の日にテレビで見た、世界王者の右ストレート。あれを打ってみたくて、ただそれだけで。
地方の金属加工工場で働く真壁拳一、二十七歳。給料日前の弁当はもやし炒め。始末書は今月三枚目。どこにでもいる、腰の低い会社員だ。
ただし、その拳は、いちばん軽いジャブで鉄板をへこませる。
そして本人は、人を殴れない。
ある夜、帰り道の神社の裏から、湿った音が聞こえてきた。
倒れた男。その腕に歯を立てる、灰色の何か。
膝が笑う。逃げたい。でも、そこに人がいる。
「……その人、食べるの、やめてもらえます?」
「オマエ、ナニモノダ?」と問われて、とっさに口から出た名前は――
「……ナックラー」
言った瞬間から、後悔した。
その名前は、人の知らない夜の町で、勝手に一人歩きを始める。
「殴る前に謝るらしい」「敬語らしい」「腕が四本あるらしい」
ないです。二本です。
見えてしまった世界。追いかけてくる噂。「素人は関わらないで」と言い放つ退治師。
関わりたくない。本当に、関わりたくない。
なのに、「助けて」の声だけは、どうしても聞き流せない。
最強の拳を持ちながら、誰も殴りたくない男の、笑えて、熱くて、ちょっと泣ける現代妖怪アクション。