あらすじ

根津の路地で小さな弦楽器工房を営む椎名志乃は三十九歳。かつてコンクールでエルガーのチェロ協奏曲を弾いたが、指の病で弾くことをやめ、今は人の楽器を直して暮らしている。 雨の午後、引き戸を叩いたのは、魂柱の倒れたチェロを胸に抱えた初老の男だった。柏木透。かつてオーケストラの首席を務めたチェリストで、その夜、駅裏の居酒屋「笹舟」のカウンターで、志乃と一つ空けた席に座る。 彼は毎日十五時になると席を立つ。行き先は、白山の坂の上に建つ、白い施設。そこには、夫を「お客さま」と呼ぶ妻、有紗がいる。四十年、一日も妻を裏切らずにきた男と、誰にも扉を開けずに生きてきた女。月に一度の楽器の点検と、焙じ茶の湯呑みのあいだで、二人の距離は少しずつ、けれど決して越えない線の手前まで縮まっていく。 志乃の手もとには、彼のケースから落ちた一束の原稿がある。題は『五つの点』。エルガーがヴァイオリン協奏曲の楽譜の冒頭に伏せた五つの点に、誰の名前が入るのか――作曲家を愛した女たちの物語を、有紗が書き残したものだった。返せないまま読み進めるうちに、志乃自身の右手の小指が、ある日伸びなくなる。昔と同じジストニアだと、志乃は自分に言い聞かせるのだが――。 やがて志乃は、この一年半のすべてを手紙に綴りはじめる。初めは指で、それから声で、最後は瞳で、一文字に一秒ずつ。宛先は、ただ一人の「あなた」。 腐れ縁の共同経営者・仁科、まっすぐな若いチェリスト・佐伯、そして笹舟の女将。エルガーの旋律に導かれて、それぞれが守ってきた約束と、言えなかった言葉が鳴りはじめる。 語るように歌う――レチタティーヴォのように綴られる、触れそうで触れない大人の恋の物語。 10月30日と31日は1日3回、それ以降は毎日、20時に投稿予定です。

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エブリスタ
エブリスタ2026/10/30
  • 現在の作品瞳のレチタティーヴォ