あらすじ
人間は、自分の人生について実に多くのことを語る。
正しい選択だった。仕方がなかった。あの時は、ほかに方法がなかった。
もっとも、それらの説明が事実であるかどうかは、本人にもよく分かっていない。
合理性を信じる男が、最も合理的ではないものを失った。
誠実であろうとする男は、その誠実さを説明するために、随分と多くの言葉を必要とした。
人生を俯瞰する男は、他人の矛盾には寛容だったが、自分の矛盾を改めることには、さほど関心がなかった。
そして、何も決めない男がいた。彼は自分の判断に、誰よりも満足していた。
岳は、その誰とも少しずつ似ていた。
幼い頃、彼にとって世界は音楽だった。
音階は聞き分けられた。和音は分解できた。次に鳴るべき音も、ほとんど分かっていた。
しかし、人の気持ちはそうはいかなかった。
十一歳の少女が自分に向けた眼差しの意味も、返事を書かなくなった手紙の向こうにあった感情も、十五年という時間が何を変え、何を変えなかったのかも。
岳には分からなかった。
ただ、彼女が美しかったことだけは覚えている。
HARUKA。
ウィーンで出会い、ジュネーブで離れ、東京で再会することになる女性。
十五年後、サントリーホールで彼女の演奏を聴いた夜、岳は東京タワーへ向かった。
東京タワーは赤かった。
赤くなかったことなど、ほとんどない。
それでも、その夜の東京タワーは、少しだけ違って見えた。