あらすじ
「共生社会」という言葉には、どこか当然のような響きがある。
文化が違っても、互いを尊重すれば共に暮らせる。
価値観が違っても、話し合えば理解し合える。
違いを認め、寛容になり、互いに歩み寄れば争いは減っていく。
しかし、そこには一つの重大な前提が抜け落ちている。
そもそも、双方に共生する意思はあるのか。
ある国に移住したことと、その国の社会と共生したいと考えていることは同じではない。
仕事を求めること。
高い所得を求めること。
安全を求めること。
家族の生活を良くすること。
子供に良い教育を受けさせること。
これらはいずれも移住の動機になり得る。
しかし、その社会を構成する一員として、共通する法律や規範を受け入れ、自分自身も必要な範囲で行動を調整する意思があるかどうかは、まったく別の問題である。
さらに人間は、国境を越えたからといって、それまでの人生によって形成された価値観まで置いてくるわけではない。
治安、貧困、教育、宗教、家族、国家への信頼、男女関係、地域共同体。
異なる環境で何十年も生きれば、何が正しく、何が危険で、誰を信用し、何を優先するべきなのかという「常識」そのものが異なっていく。
そしてさらに重要なのは、
価値観が人によって異なるという事実を理解できるかどうかさえ、その人がこれまで何を学び、どのように生きてきたかによって変わる
という点である。
自分には当然に理解できる。
だから他人にも理解できる。
説明すれば分かる。
話し合えば分かり合える。
その前提自体が、自分自身の人生経験によって形成された価値観なのかもしれない。
そう考えると、共生に必要なのは「すべての人が理解し合うこと」ではない。
むしろ、
人間は完全には理解し合えない可能性がある
という現実から始める必要がある。
理解できなくてもよい。
好きになれなくてもよい。
同じ宗教を信じる必要も、同じ文化を好む必要もない。
しかし、同じ社会を維持するのであれば、互いが従う最低限の共通ルールだけは必要になる。
共生とは、異なる者を無条件に受け入れることではない。
異なる者同士が、理解できない部分を残したままでも同じ社会を維持できるよう、共通する最低条件を受け入れることである。
そして、その最も手前にある条件が
互いに共生する意思を持っていることなのである。