あらすじ
坂の上の朝は匂いがなく、坂の下の朝は木と川の匂いがした。
戦がなく、病も遠ざけられ、人があまり死ななくなった国。怒りは「不調」と呼ばれ、ていねいに「お世話」される。誰もが、自分たちは幸福だと信じている。
低地の町・浪華。古い倉庫の二階で暮らす十八歳の晶は、昼は役所の刷り物に笑顔の家族を描き、夜は誰にも見せない一枚の絵を描いている。うつむいた女の輪郭は、何度描いても閉じない。
家に伝わる古い碗は「うちの黒いの」と呼ばれ、その由来を知る者はいない。高台の疵に指を触れたとき、晶だけが白檀と、鉄と、血の匂いを嗅ぐ。
数百年前の冬の夜明け。ひとりの男が、妻を守るために、ある道を引き返さなかった。
正しさが完成した善意の社会と、その最初の歯車になった男。二つの時代が一つの碗を通して静かに響き合う、歴史改変の長編小説。
※本作は、優生思想が「善意の制度」として根づいた社会を描きます。作中の制度や思想を肯定するものではありません。