あらすじ
数年前、雨の降る夜に起きた交通事故が、中野希子(なかの きこ)の最愛の人を奪った。
救急医である彼女は、これまで何度も生と死の境に立ち、力の限りを尽くして、見ず知らずの人々を死の淵から救い出してきた。けれど、あの日。恋人を自らの手で懸命に処置しながら、彼女だけは連れ戻すことができなかった。ただ目の前で、その鼓動が止まっていくのを見届けることしかできなかった。
誰もが、それは希子のせいではないと言った。それでも希子は、どうしても自分を許すことができなかった。
あの日から、恋をすることも、未来に何かを望むこともやめた。ただ毎日のように救急の現場へ向かい、運ばれてくる命を一つ、また一つと救い続ける。立ち止まらずにいれば、永遠に取り戻せないあの命に、ほんの少しでも償えるような気がしていた。
それから数年後、再び訪れた雨の夜。
仕事を終えて帰宅する途中、希子は雨に濡れ、全身をびしょ濡れにした一匹の小さな灰色の猫と出会う。家へ連れ帰った彼女は、なぜその名が頭に浮かんだのか、自分でもわからないまま、その猫に名前をつけた。
「……ハル」
ひどく人見知りなくせに、なぜか希子のことだけは怖がらなかった。帰りを待ち、つらそうにしているときには、何も言わずそっとそばへ寄ってくる。ときどき、妙に懐かしさを覚えるような仕草まで見せた。「ハル」と呼ぶたびに、その小さな灰色の耳はいつもぴくりと立ち上がる。まるで、その名前をもう何度も何度も聞いてきたかのように。
そうして、一人と一匹の暮らしが始まった。何年ものあいだ時が止まっていたその家に、少しずつ「にゃあ」という声が増えていった。
雨の夜に囚われていたひとりの人のもとへ、ようやく再び、陽の光が差し込み始めた。