あらすじ
県立総合病院の産婦人科医・桑原俊彦、三十五歳。分娩件数・県内一位を誇る「若き名医」は、いつしか「何件救ったか」という数字のとりこになっていた。件数を稼ぐため、彼は健康な妊婦の陣痛を薬で誘発し、予定日を少しずつ前倒しにしていく。「大きくなりすぎる前に、安全なうちに」──その言葉を、患者たちは疑わなかった。
年の瀬の夜。好敵手にわずか五件の遅れをとった桑原は、日付が変わる前の「今日の一件」に取り憑かれ、予定日より二週間も早い分娩を強行する。無理な誘発の果てに、赤ん坊は生まれた──だが、母親・樫村喜美枝は、命を落とした。死亡確認、二十三時五十九分。日付が変わる、わずか一分前だった。
その夜、桑原は、ひとり記録室にこもる。そして、母親の死亡時刻を、日付をまたいだ「午前零時二分」へと書き換えた。お産の最中の死を、翌日の急変に見せかけるために。命を数えるはずの記録が、命をごまかす道具に変わった瞬間だった。
改竄に気づきながら、それを保身の隠れ蓑に使う病院。真実を目撃しながら、不当なリスクを畏れて、声を上げられずにいる助産師・坂本恵。何も知らされぬまま妻を奪われ、やがて、真相を求める夫・樫村良幸。そして、不適切な「二週間早めた分娩」に食らいつく、一人の週刊誌記者──。
一人の医師の見栄から始まった小さな嘘は、組織ぐるみの隠蔽へと接ぎ木され、やがて病院そのものの命運を揺るがしていく。二つの調査委員会は、なぜ真実を「不手際」の一語に薄めたのか。そして、数字に取り憑かれた男が、その生涯の最後に触れたものとは──。