あらすじ

四十二歳の建築士・榊透は、金曜日の午後十一時四十二分、JR玉造駅から乗った大阪環状線で、高校時代の恋人・河原美和と二十四年ぶりに再会する。 東京で結婚したはずの美和は、離婚し、認知症の母を介護するため大阪へ戻っていた。一方、榊には妻と七歳の息子がいる。 二人は連絡先を交換しない。 駅の外では会わない。 食事もしない。 毎週金曜日、同じ時刻の環状線で一周する間だけ言葉を交わす。 誰の生活も壊さないために決めた境界線。しかし、会えない夜を寂しく思い、家族には見せられない自分を相手にだけ見せるうち、その一時間は二人の日常から切り離せないものになっていく。 触れていなければ、裏切りではないのか。 嘘をついていなければ、何も隠していないと言えるのか。 列車は何度でも同じ駅へ戻る。 だが、人はいつまでも同じ場所にはいられない。 晩秋から春の大阪を舞台に、過去へ戻ろうとする男女と、その沈黙の外側で暮らす家族を描く、大人の再会と選択の物語。 ■榊 透(さかき・とおる) 四十二歳。一級建築士。妻と小学一年生の息子と、豊中市で暮らしている。家庭に大きな不満はなく、自分は夫としても父親としても致命的な失敗をしていないと思っている。建物の亀裂には原因調査を求めながら、自分の生活に生じた亀裂には名前をつけようとしない。 ■河原 美和(かわはら・みわ) 四十二歳。榊の高校時代の恋人。離婚後、認知症の母を介護するため東京から大阪へ戻った。榊と過ごす一時間だけは、誰かの娘でも介護者でもない自分に戻ることができる。しかし、彼の家庭を壊すことも、自分が彼の逃げ場所になることも望んでいない。 ■榊 奈緒(さかき・なお) 四十歳。榊の妻。医療事務のパートとして働きながら、家事と育児を担う。夫の変化に気づいているが、確証のない疑いによって家庭を壊すことを恐れている。問い詰める代わりに、夫が自分から真実を見るのを待っている。 ■榊 悠真(さかき・ゆうま) 七歳。榊と奈緒の息子。段ボールで駅や線路を作るのが好き。両親の抱える事情は理解していないが、父親が金曜日だけ落ち着かなくなることを敏感に感じ取っている。 ■河原 澄江(かわはら・すみえ) 七十二歳。美和の母。認知症が進み、娘を亡くなった姉や昔の友人と取り違えることがある。過去を失っていく澄江の姿は、失われた過去にしがみつく榊と美和の関係を静かに照らし出す。

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カクヨム2026/09/26
  • 現在の作品環状線 午後十一時四十二分