あらすじ
物語紹介
父が帰ってこなくなった。
私は別に困らなかった。
むしろ、少し静かになってよかったと思った。
困ったのは母だった。
毎晩、三人分の夕飯を作る。
午前二時になっても父を待つ。
玄関の鍵もかけない。
私はそんな母が、ずっと情けなかった。
ところがある日、近所のおばさんが母に言った。
「ねえ、お宅の旦那さん、浮気してるよ」
母は知らなかった。
その日の夕飯も、大根を切る音だけはいつもと同じだった。
とん。
とん。
とん。
そして数日ぶりに父が帰ってきた。
謝りもしない。
説明もしない。
ちゃぶ台に座って、
「ビール」
いつもの父だった。
だから母も、いつもの母に戻るのだと思っていた。
――戻らなかった。
ちゃぶ台に包丁が刺さった。
父は逃げた。
それでも母は、玄関の鍵をかけられなかった。
私は思った。
まだ待つの?
あんな人を?
やがて、母が初めて鍵をかけた夜。
父が帰ってきた。
「開けてくれ」
母は泣いていた。
それでも、
玄関を開けなかった。
昭和三十五年、横須賀。
これは私がずっと「情けない」と思っていた母が、
たった一つの鍵を閉めるまでの話。
――と、ここまで読んで、
「なんだ、ちょっと重めの昭和家族ドラマか」
いやいや待てまて、志乃原七海流ノワールのはじまりだよ