あらすじ
東京・羽田空港。まだ朝の色を残した国際線エリアで、硯川澄玲は毎日のように御巫透禾とすれ違っていた。
勤務する部署は異なるため、言葉を交わせる時間は出勤前のわずかな時間だけだ。しかし、彼が歩く速さや何気なく選ぶ飲み物、別れ際に少しだけ視線を向ける癖は、いつの間にか澄玲の日常に静かに溶け込んでいた。
しかし、ある朝、いつもの場所に透禾がいない。
理由を知りたいほど親しくはないし、連絡するほど特別な関係でもない。それなのに、エスカレーターを上がるたびに、ガラス越しに人影が揺れるたびに、澄玲の目は無意識に彼を探してしまう。
そこで初めて知った。毎朝会えると思っていたことと、会えなかった朝を寂しいと思うことはきっと同じではない、と。
透禾はすでに澄玲への想いを自覚している。彼女が来る時間に合わせて歩き、疲れている日は声を少し柔らかくし、好きな飲み物まで覚えているのに、その理由だけを絶対に言おうとはしない。
好きだから、困らせたくない。好きだから、期待させたくない。好きだからこそ、一歩引いてしまう彼の優しさを、澄玲は「誰にでもそうする人だから」と受け止めていく。
澄玲もまた、自分の胸に生まれた感情に名前をつけない。優しさに意味を期待し、それが自分だけの勘違いだったと知らされるくらいなら、最初から何も望まないほうが傷つかないと思っているからだ。
誰かを送り、誰かの帰りを待ち続ける空港で、互いだけが「待っていた」と言えない。
朝には少し近づき、昼には離れ、夜に偶然を装ってまた出会う。その繰り返しの中で、小さな気遣いは少しずつ重みを増し、言わなかった言葉だけが胸の奥に積もっていく。
そして、優しさはときに拒絶よりも残酷だ。相手を傷つけないために選んだ遠慮が、相手には「自分は特別ではない」という証拠に見えてしまうから。
それでも、朝は何度でも来る。
昨日と同じように人が行き交い、同じように便名が並び、同じように誰かが旅立っていく。その中において、澄玲と透禾だけが昨日とは少し異なる感情を抱きながら同じ場所に戻ってくる。
これは、好きなのに言えない恋の物語ではない。
「待っていた」と言うだけで、世界はほんの少し違って見える。
朝から夜へ、無数の人が行き交う東京の空港で、名前のなかった感情がようやく帰る場所を見つける。