あらすじ
「AIが作った作品は嫌い」
それ自体は、何もおかしくない。
人間が自分で書いた文章を読みたい。
作者が試行錯誤して作ったものに価値を感じる。
AI生成物には魅力を感じない。
好き嫌いに、客観的な根拠は必要ない。
しかし、
「AI作品は低品質だから嫌い」
「AI文章は冗長だから駄目」
「人間が作ったものの方が価値がある」
「AI生成物が増えると良作が埋もれる」
となると、それぞれ少しずつ違う話になってくる。
作品そのものの出来を評価する「品質」。
AI作品を見たいかどうかという「嗜好」。
誰が、どのような工程で作ったのかを重視する「出自・制作過程」。
大量生成によって作品を探しにくくなる「流通」。
これらは、すべて「AI作品」という言葉の周辺で語られるが、同じ問題ではない。
さらに、「AIっぽい文章」と呼ばれている特徴は本当にAIだけのものなのか。
一行のプロンプトで生成した文章と、人間が論旨を考え、AIとの対話を重ねながら構成・検討・推敲した文章を、同じ「AIが書いたもの」の一言で扱えるのか。
そして、書評で作品を「ゴミ」と呼ぶとき、その一語はいったい何を評価しているのか。
AIを肯定するためでも、否定するためでもない。
AI創作について語るとき、自分はいま何を批判し、何を評価しているのか。
品質・出自・嗜好・流通という四つの論点から、それを整理して考える評論。