あらすじ
まだ釣りをやめるまえのこと、私は例によって、地図であたりをつけた川に出かけていった。
奥深い山にわけいり、散々歩いて、目当ての渓流に辿りついた。そして、フライ(毛バリ)をポイントにキャストしていった。
いうまでもないが、授業に出ず、眠りたいときに眠り、呑みたいときに酒を呑むという、若かった私はきわめて不規則、かつ底抜けに愉しい生活を送っていた。すると、どうなるか。ところかまわず便意を催すのである。その日、渓流を遡行している最中に、どうにも我慢が出来なくなった。
しかし、慌てることはない。私は芯を抜いたトイレットペーパーをつねにザックに忍ばせていた。芯を抜くのは、つぶして、少しでもかさを小さくするためである。
私は川から上がり、山の斜面を登っていった。
川に近いと、他の釣行客と出くわす可能性が小さいとはいえ、まったくないとはいえないのである。排便しているオモシロイ姿を、他人にみられたくはなかった。まだまだ、まだまだと思い、便意を堪えて、堪えて、斜面を登りつづけた。
まばらな木々のあいだをぬって、川ばかりみる釣り人の視界から外れたろう、と確信できたところで、私はウェーダーを脱ぎ、ズボンを下した。
やや間があり、安堵して、見るともなしに様子を窺った。すると、黄色と黒の見事な警戒色のアシナガバチが黄土色の造形物のまぢかを飛んでいた。アシナガバチはスズメバチの仲間である。私は排泄の最中である。アシナガバチが飛んでいるのは、私の生殖器のまぢかでもある。刺されるのも、前も後ろも、たかられるのも、近所を飛ばれるのも、何もかも、どうかご遠慮願いたい、と心から思った。
私はオモシロイ格好のまま、ゆっくりと前進した。ふざけている、と思われるかもしれないが、真剣のうえにも、真剣だった。必死でもあった。
二メートルも進んで、アシナガバチが私の下半身ではなく、排泄物に執着しているのを確かめて、必要な処置を済ませ、立ちあがってズボンを上げた。
やれやれ、さて、川に戻ろう、と振り返ったときだった。 川を挟んだ、むこうの山の中腹に、私の地図には載っていなかった、ま新しい自動車専用道路が通っていた。そして、何台もの車が走っていた。私の挙動のすべてが道路からまる見えだったのだ、とそのときになってようやく気がついた。
あの、これも、実話です。