あらすじ
聖印は灯らない。奇跡も起こせない。できるのは、蹴り倒された床を、その日のうちに自分で拭くことだけ。
お飾り聖女。皆がそう呼ぶ。合っているので、困らない。
ただ、ひとりだけ、話し相手がいた。
『セラや。今日のが、最後じゃ』
その神さまは、雲の上にはおられない。いつも床の高さにいて、麦ひとつまみと、誰も覚えていない石工の名前を、三百年、忘れずにいる方だった。
その日、宣告が下りた。
北の果て、氷竜辺境伯への降嫁。三ヶ月以内に署名を得られなければ、死刑。受け入れられても拒まれても、辺境伯家が潰れる仕組みになっている。
広間の誰もが私を憐れんだ。私は、口の端が上がるのを、奥歯で必死に押さえていた。
(王家のお金で、推しの住む土地まで……?)
前世の私が終電の車内で何度も読み返した物語。その主人公が、そこにいる。
「貴様を愛することは、金輪際あり得ないと思え」
完璧だった。声の低さも、眉間の皺の寄り方も。
――ただ、原作になかった傷が、その左手首にあった。
薪が一本しか燃えていない執務室。九年、十二から名前の増えていない帳面。塩の足りないスープ。
私にできるのは、床を磨くこと。人の名前を覚えて、書きとめること。それだけ。
それだけのことで、凍った城が、少しずつ音を立て始める。
やがて鉱山の奥に見つかるのは、三百年、誰もくぐらなかった低い戸口。冠をかぶったままでは、どうしても通れない高さの戸口だった。
これは、ざまぁの話ではありません。高すぎる塔は、自分の重さで崩れます。崩れたあと、閉じた扉の外に立って泣いている方が、ひとり。
小さいものに仕える話です。
そして最後まで、救われる側が私である、という話です。
――今日も、床を磨いています。
【注意書き(任意で末尾に)】
※溺愛・ほのぼの・飯テロ寄り。断罪はありますが、爽快な「ざまぁ」ではありません。
※全話・完結済み。