あらすじ
昭和四十八年、五月。
あの男と、目が合った。
買い物帰りの安岡あずみは、商店街の裏路地で強盗を目撃する。
逃げればよかった。
叫べばよかった。
けれど両腕には、缶詰の入った重い紙袋があった。
動けないあずみへ、顔を隠した男が近づいてくる。
「警察に言ったら、どうなるか分かるな」
その声を聞いた瞬間から、家へ帰ることさえ怖くなった。
あとをつけられていたら。
家を知られたら。
母まで巻き込まれたら。
あずみは誰にも見られていないことを確かめながら、母と二人で暮らす家へ逃げ帰る。
そして翌日。
玄関を訪ねてきたのは、一人の警察官だった。
「この辺りで、怪しい男を見ませんでしたか」
制服を着ている。
警察手帳も持っている。
どこから見ても、普通の警察官にしか見えない。
それなのに母は、その男が帰ったあと、ぽつりと呟く。
「あのお巡りさん、本物だったのかしら」
制服を着ていれば、警察官。
警察手帳を見せれば、本物。
昨日までは、それでよかった。
けれど一度疑い始めると、玄関の向こうに立つ人間が誰なのかさえ分からなくなっていく。
昭和の住宅街を舞台に、母と娘の日常へ静かに忍び込んでくる違和感。
これは、ひとりの強盗を目撃したことから始まる、
「信じること」が少しずつ壊れていく物語。