あらすじ
「大いなる水が来る」という噂が、東の海沿いを渡っていた。
ケサルはノアの血に連なる娘であった。彼女は父の言葉に従い船を出した。乗り組んだのは女五十人と男三人。男の名はビト、ラドラ、そしてフィンタン。
船は西へ、世界の果てのような島に着いた。人の住まぬ岸であった。彼らは洪水が来ることを知っていた。知っていても避けるすべはなかった。
水の来る前に男たちの数は減った。伝えによれば、ラドラとビトは相次いで世を去り、ケサルもまたこの島の丘で息を引き取ったという。
やがて水は来た。それはこの島だけを洗う水ではなかった。聖書の語る大洪水と同じ水、世界のすべてを覆う水であった。山の頂も水の下に消えた。
残された女たちは水とともに死んだ。フィンタンだけが山の洞窟に身を潜め、水の下で眠り続けて一年ほどを生き延びた、と伝えられる。
彼が目を覚ましたとき、島には誰もいなかった。人も獣も畑もなかった。以後三百年余りのあいだ、島は無人のまま、ただ風だけが渡った。
フィンタンはその長い空白をひとり生きた。後世の伝えは、彼が鮭となり鷲となり鷹となって、幾多の民の興亡を見届けたと語る。