あらすじ
私の働く古本屋『猫目堂』のレジカウンターには、ほんの少しだけ超常現象が混ざっている。
条件は三つ。
一つ目は、この店に持ち込まれた本であること。
二つ目は、前の持ち主がその本を「最後まで読み終えている」こと。
そして三つ目、私が店の備品である青いマイクロファイバークロスでその本の裏表紙を拭くこと。
これらが揃うと、私には「その本が読み終えられた直後の五秒間の環境音」が聞こえるのだ。
美大生である「私」(長谷川)は、講評会での容赦ない批評に感性を否定されたように感じ、絵を描くことを諦めていた。
無意味な超常現象で他人のプライベートを垣間見ながら、安全圏から他人の人生を冷笑してやり過ごす日々。
そんな私がひそかに「薄っぺらいノウハウを消費するだけのうるさいエリート気取り」と見下していたのが、常連客の桐山さんだ。
パリッとしたスーツを着こなし、横文字を多用する彼は、自己啓発本ばかりを大量に売りに来る。
しかしある夕方、力なく持ち込まれた大量のビジネス書の山の下敷きになっていたのは、一冊の古い名作絵本『星を拾うクジラ』だった。
何気なくクロスで拭いた私の耳に届いたのは、一定のリズムを刻む無機質な電子音と、「……おとうさ……」という小さな女の子の苦しそうな声。
そして、いつもの自信に満ちた大きな声ではなく、ひどく掠れて今にも泣き出しそうな桐山さんの震える声だった。 深い喪失を抱えながら、倒れそうになる自分を奮い立たせるために強い言葉ばかりを読んでいた不器用な男の「五秒間」を知ったとき。
傷つくことを恐れて筆を折っていた私の時間が、再び動き出す。
不思議な古本屋を舞台に交差する、喪失と再生のヒューマンドラマ。
1話完結で約8000文字の超短編小説。サクッと読める心温まるヒューマンドラマです。