あらすじ
昭和十一年、火災によって閉鎖された私立精神療養所「甦生館」。
焼け跡となった書庫から、一冊の奇妙な文書が発見された。
表紙に記されていた題名は――『脳髄回廊』。
そこに綴られていたのは、記憶にまつわる異様な研究記録だった。
甦生館ではかつて、九条家に伝わる古い絵巻と、人間の記憶との間に奇妙な関係があるという仮説が研究されていた。
研究者たちは、記憶とは脳に保存されるものではなく、血統を越えて受け継がれる「旋律」のようなものではないかと考え始める。
そして実験対象には、乙第一号、乙第二号、乙第三号――と番号が与えられていった。
だが、記録を読み進めるにつれて、不可解な事実が浮かび上がる。
被験者たちは、自分が経験していないはずの記憶を語り始める。
存在しないはずの人物を知っている。
まだ起きていない出来事を思い出す。
そして、ある記録にはこう残されていた。
――わたしではない。
やがて研究者自身も、自分の記憶が本当に自分のものなのか疑い始める。
甦生館で何が行われていたのか。
「遺伝旋律論」と呼ばれた研究は、本当に人間の記憶を解明するものだったのか。
そして、乙第七号として記録された人物は、一体誰なのか。
すべてが明らかになるはずだった。
だが、甦生館は火災によって焼失する。
研究者も、患者も、資料も失われた――はずだった。
数十年後。
焼け跡から発見された文書を整理していた編者は、奇妙な違和感に気づく。
同じ文書を写したはずなのに、写すたびに文章の一部が変化している。
人物の名前が変わる。
時計に刻まれた言葉が変わる。
そして、存在しなかったはずの記録が、少しずつ増えていく。
最後に残された記録には、
――「乙第八号、発見さる」
とだけ記されていた。
実験は、終わっていなかった。
いや。
そもそも、最初から終わってなどいなかったのかもしれない。
『脳髄回廊』とは何なのか。
誰がこの本を書いたのか。
記録されているのは過去なのか、それとも未来なのか。
そして――
この文章を、いま読んでいる「あなた」は、本当に最初の読者なのだろうか。