あらすじ

午前3時、腕時計が震えた。画面に浮かんだのは、遠く筑波にいるはずの恋人・明彦の名前。しかも、メッセージではなく音声通話だった。時間も考えずに何事かと、直美は苛立ちながら電話に出る。 「今すぐ、iPhoneの衛星通信をオンにしろ。窓も、ドアも、玄関も全部開けろ。緊急持ち出し袋をテーブルに出して、十五分待て」 横浜のマンションで眠っていた直美は、わけも分からぬまま、不機嫌に言い返す。けれど受話器の向こうの声は、いつもの軽口ではなかった。 「15分以内に、あのJアラートが鳴る。南海トラフだ」 明彦がいるのは、高エネルギー加速器研究機構(KEK)のモニタールーム。光に近い速さで周回する電子と陽電子のビームが、地面のわずかな伸び縮みを、地震計よりも早く、静かに拾っていた。過去に観測した遠い地震の波とは明らかに違う、不穏な数字。上昇は止まらない。確証はない。あるのは科学者の勘と、刻一刻と減っていく残り時間だけ。 KEKBの時代から、加速器は遠い地震の波を記録してきた。2005年のスマトラ沖地震でも、ビームは地球を巡る揺れを確かに捉えていた。だが今夜の数字は、そのどれとも違う。電子の粒は嘘をつかない。だからこそ、彼は恋人に電話をかけた。 築三十年のマンション。歪んで開かなくなるかもしれないドア。今日は、直美が担当する女の子の新曲の録音日。いつもと変わらない朝が来るはずだった。それなのに電話口からは、水、簡易トイレ、生理用品、バッテリーと、準備の指示が次々に飛んでくる。直美の頭に浮かぶのは、スタジオで歌う遥の笑顔。あの子の声が、今日、世界に出るはずだったのに。 「明彦、怖いわ」 「俺もだ。キミを横浜に一人にしているんだから」 離れた場所に、愛する人がいる。駆けつけたくても、道も電車も、地震のあとには途絶えるかもしれない。電波が死んでも、空が開けていれば、衛星だけが二人をつなぐ。画面に灯る小さな「衛星」のマークが、細い命綱になる。 もしこれが杞憂なら、笑い話で終わる。けれど、もし本当に起きたなら。 地震予知は、本当に可能なのか。あと15分で、何を守り、何を持ち、誰に連絡を取るのか。巨大地震の「前」と「後」を、スマホの小さな画面と、彼の声だけを頼りに生き抜く二人の物語が、いま静かに幕を開ける。

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カクヨム
カクヨム2026/10/07
  • 現在の作品「👗私たちの南海トラフ」つくばの加速器、横浜の十五分、ネットが死ぬ朝