あらすじ
定年を迎え、久しぶりに立ち止まる時間を得た男は、テレビで人口減少を伝える国勢調査のニュースを見る。
人が減れば、自然は豊かになるものだと思っていた。
ところが、物置から見つけた古い釣り竿を手に、子どもの頃に遊んだ川へ向かうと、そこには澄んだ水が流れているものの、かつて当たり前のようにいた魚たちの姿は見えなかった。
タナゴ、ハヤ、オイカワ、カジカ、ヤマメ、ドジョウ、ウナギ――。
魚だけではない。
川で遊ぶ子ども、水路を見る人、山へ入る人、川の異変に気づく人もいなくなっていた。
川沿いに増えた空き家を眺めながら、男は、自分の家族や地域の記憶が三世代ほどを境に薄れていくことに気づく。
自分はどこから来たのか。
豊かさとは何だったのか。
便利さを求め続けた二十世紀を経て、薪ストーブや囲炉裏、薪風呂、竈炊きといった、かつて「不便」とされたものが、今では贅沢として求められている。
人が取り戻そうとしているのは、本当に「不便さ」なのだろうか。
火の匂い、水の冷たさ、風の変化、鳥の声。
いつの間にか使わなくなっていた五感を通じて、男は、自分と土地とのつながりを少しずつ思い出していく。
そして、祖母が何気なく口にしていた一言の意味に気づく。
「おかげさまで」
これは、失われた昔を取り戻す物語ではない。
もう一度、自分の足元を見つめ、自然、人、土地、そして自分自身との関係を結び直そうとする、一人の男の小さな再出発の物語である。