あらすじ
食品商社で働く、ごく普通の会社員・坂木晴彦。
特別な戦闘能力も、ダンジョンの専門知識もない。
そんな彼には、十年間続けている日課があった。
会社帰り、駅前ダンジョンの第一層を三十分から一時間だけ歩くこと。
そして、気になったことを手帳へ一行だけ書き残すことだ。
濡れていた床。
いつもと違う風の匂い。
見かけた小さな魔物。
通れなかった道。
本人にとっては、ただの散歩メモだった。
ところがある日、毎年同じ時期に起きる西回廊の異変について何気なく手帳を見せたことで、探索者協会の研究員が十年分の記録に目を留める。
「坂木さん……これ、この第一層で私たちが把握していなかった周期が、全部残ってます」
協会には、その日の状態を細かく測る最新の観測データがある。
だが、十年前の同じ場所をもう一度観測することはできない。
短くても、粗くても。
同じ場所を十年間見続けた記録は、誰も持っていなかった。
西回廊の異変。
魔物の移動。
季節ごとに変化する水路。
何気なく残してきた一行一行が、やがて誰かの安全を守るための資料へ変わっていく。
会社を辞めるわけでもない。
最強の探索者になるわけでもない。
これまで通り会社帰りにダンジョンを歩き、気になったことを書くだけ。
これは、何者でもないと思っていた普通の会社員が、
十年間続けてきた日常そのものに価値を見つけ、
やがて探索者協会から必要とされる「観測員」になっていく物語。