あらすじ

人間の町の路地裏に、夕暮れから夜明けまでだけ開く隠れ街・逢魔小路がある。そこにある化け猫亭は、品書きに料理名を書かない居酒屋だ。客は「月夜の豆腐」のようななぞかけで注文し、板前のジンがその意味を読み解いて一品を出す。解けなければ板前の恥、解けたときの代金は客が釣り合うと思うものを置いていく。それが店の決まりだった。  店は、十年前に家を追われた十五歳のジンを拾い、料理人として育てた化け猫の女将・おタマが始めたもの。三年前、おタマは旅に出て店をジンに譲った。今も変わらぬ出汁の匂いとともに、ジンは化け狐のおコンや塗り壁の常連たちと小さな店を守っている。  ある夜、山伏姿の十歳ほどの子天狗が店を訪れる。背中の羽はしおれ、目元は赤く、足元もおぼつかない。彼は「一番遠くて近い場所の味」を注文する。おコンは「自分の背中」「月」などと当てるが、どれも外れる。  ジンは子天狗を観察する。着物についた白い綿苔は、年じゅう霧に覆われた鞍掛山だけのもの。乾物屋で聞いた話によれば、鞍掛山の天狗の里では、春に修行に出る子へ母親が半年分のくるみ味噌を渡す習わしがあるという。子天狗が持つ壺の匂いは、もう食べられるほど残っていなかった。 しかし、里のくるみ味噌は唐辛子の効いた辛口だと聞くのに、壺から漂うのは甘い香りだった。さらに子天狗は、ほんの少し辛いお通しすら押しやっていた。ジンは気づく。母親は、辛いものが食べられない息子のためにだけ、唐辛子を抜き蜂蜜を加えた味噌を別に仕込んでいたのだ。子天狗にとっての故郷の味は、里の味ではなく、自分のためだけに作られた母の味だった。  壺を借り受けたジンは、唐辛子を一切使わず、炒ったくるみ、麦味噌、蜂蜜で同じ甘い味噌を再現する。それを焼きおにぎりに塗り、温かい豚汁とともに差し出す。一口食べた子天狗は涙をこぼし、「母ちゃんの味だ」とつぶやく。修行の辛さと里心を、誰にも言えずに抱えていた彼は、初めて気持ちを吐露する。  食事を終えた子天狗は代金に松茸を置き、再び夜空へ飛び立つ。しおれていた羽は、ぴんと張り直していた。ジンは、自分がかつて拾われた夜に食べた出汁の味を思い出す。帰る場所を持たなかった自分にとって、いちばん遠くて近い場所の味とは何だったのか。松茸の香りと出汁の湯気の中、逢魔小路の夜は温かく更けていく。

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エブリスタ2026/10/03
  • 現在の作品あやかし長屋の「お品書き暗号」