あらすじ

「君は何もしていない」

 夜会の真ん中で、婚約者のユリウス様はそうおっしゃいました。百人からの貴族が聞いている前でした。

 わたくしがヴァルトハイム公爵家に入ったのは三年前、花嫁修業という名目でのことです。朝は五時に起きて使用人に一日の指示を出し、厨房に献立を通し、帳簿をつけ、領地から上がってくる陳情を仕分けて、出入りの業者と値段を詰めて、社交シーズンの招待状を百二十通手配しました。去年もその前も、同じことをしています。誰にも申し上げたことはありません。一度も訊かれませんでしたので。

 ですから「何もしていない」というお言葉は、たぶん正しいのだと思います。あの方の目には、本当に何も映っていなかったのでしょう。

 承知しました。では明日から、本当に何もいたしません。

 鍵束をお返しして、帳簿をお返しして、わたくしは屋敷を出ました。引き継ぎ書は書いておりません。どなたからも求められませんでしたから。

 三日後、公爵家の朝食は誰も時間を知らないまま冷めていったそうです。一週間で出入りの業者が消えて、二週間で使用人が七人辞めたと聞きました。わたくしはそのころ北の辺境におりましたので、全部あとから人づてに知ったことです。

 ところでその辺境の領主様は、わたくしの顔でも家柄でもなく、三年前にわたくしが書いた帳簿の字を見て「これを書いたのはあなたか」とおっしゃいました。三十二歳の、やたらと落ち着いた方です。

 これは、やって当たり前だと思われていた女が、自分の名前で呼ばれるようになるまでの話です。

※本作品は小説家になろうでも掲載しています。

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アルファポリス
アルファポリス2026/10/02
  • 現在の作品『君は何もしていない』——そう言われたので、本当に何もしないことにしました