あらすじ
春の朝、いつもそこにいるはずの人がいなかった。
それだけのことだったはずなのに、冬凪澄依は駅に向かう坂道で何度も顔を上げた。曲がり角にも、小さな店の前にも、見慣れた背中はない。約束をしていたわけでもないし、待っていたつもりもない。それなのに、いつもの朝から何かひとつだけ抜け落ちている。
代々木上原で一人暮らしをする二十七歳の澄依と、近所に暮らす二十八歳の久世静弦。最初は顔を合わせれば挨拶をするだけの関係だった。
春には偶然だった帰り道が夏には予定を合わせる時間へと変わり、秋には静弦のいない休日を持て余すようになった。そして、冬が近づくころには彼が隣にいることのほうが日常になっていた。
澄依は静弦の優しさに触れるたび、自分へ言い聞かせる。この人はきっと、誰にでもこうなのだと。
期待してしまえば今までと同じ道を歩けなくなるかもしれないし、好きだと認めてしまえば何でもなかった朝まで意味を持ってしまう。その怖さから澄依は、心の奥に生まれたものへなかなか名前を与えられないでいた。
けれど静弦は、彼女より少し早くその感情の正体を知っている。
好きだから近づくのではなく、好きだから急がない。自分の気持ちを伝えたことで澄依がこの街で自分を避けるようになるくらいなら、今の距離を守っていたい。
待っていないふりをする朝、別れる理由のない夕暮れ、短いメッセージを何度も書き直す夜。
恋は、大きな出来事から始まるとは限らない。誰かがいないことに気づくこと。歩く速さを覚えてしまうこと。何気なく選んだ店で隣の席を空けておくこと。そんな小さな変化の積み重ねの中で、生活のほうが心より先に相手を必要としてしまうことがある。
『季節だけが先に知っていた』は、春から冬までの東京を舞台に、恋人になるより先に互いの日常に入り込んでしまった男女を描く恋愛小説です。
季節は止まってくれない。桜は散り、夏の熱は薄れ、風の匂いが変わり、冬の光が街へ降りてくる。そのたびに澄依と静弦の距離もほんの少しだけ変わっていくのに、肝心な言葉だけがいつも遅れている。
そして冬の夜。
春には「いないこと」が気になった人へ、澄依はようやく自分でも長い間言えなかった気持ちと向き合う。
好きという言葉より先に、暮らしが恋を覚えてしまった。
これは、そんな名前のない時間にようやく言葉が追いつくまでの物語。