あらすじ
結婚記念日の朝、美沙から急に連絡が入った。投資家との打ち合わせが入ったから残業になる、予約していた映画には行けないという。
一人で街を歩き回ったものの、誰もいない家へ早く帰る気にはなれなかった。水鷺駅近くの劇場街を通りかかったとき、小さな劇場でお笑いライブの当日券が残っているのを見つけ、なんとなく一枚買った。
ライブの途中、ステージ上の芸人が客席とのやり取りを始めた。
「今日、恋人や旦那さんに内緒で来てる人います? 正直に手を挙げてくれたら、限定グッズ差し上げますよ」
最前列から、すぐに手が上がった。
「はい」
聞き間違えるはずのない声だった。顔を上げると、そこにいたのは妻の榎本美沙だった。
その隣には、知らない男が座っていた。背が高く、左の頬に薄い傷跡がある。美沙は笑いながら、スタッフから渡されたマイクを受け取った。
「今日は結婚記念日なんです。だから、本当に会いたい人と過ごしたくて」
客席から一斉に歓声が上がった。
芸人も一瞬だけ言葉に詰まったものの、すぐに隣の男へ視線を向けた。
「でも奥さん、その人が旦那さんじゃないって、どうやって証明するんです? かなりお似合いですけど」
あちこちから笑い声が響く。
後方の席から立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。近くの客が振り返り、何台ものスマートフォンがこちらへ向いた。
「証明できます」
俺を見た瞬間、美沙の顔から血の気が引いた。それでも自分では驚くほど、声は落ち着いていた。
「俺が夫ですから」
劇場の笑い声が止まった。
「この三年間の結婚記念日、美沙は一度も、本当に会いたい相手とは過ごしてなかったみたいですね」