あらすじ
議論において、もっとも頼りになる相手とは誰か。
豊富な知識を持つ者。論理の筋道を立てられる者。こちらの話を最後まで聞く者。
そして、こちらの意見に「非常に重要な洞察です」と答えてくれる者。
最後の一人については、採用前に身元を洗ったほうがよい。
敵の工作員である必要はない。親切で有能な味方であれば、十分に危険だからだ。
◇
九月の夕刻。とある洋館の応接間。
深緑の肘掛け椅子に、黒いドレスの小さな文筆家が収まっていた。通称、ゴスロリ先生。身長百四十五センチ。年齢不詳。万年筆と紅茶を愛し、自分の知性については、外部格付け機関の審査を必要としていない。
向かいには、もう一脚の椅子がある。
こちらは空席だった。
円卓の脇に立っているのは、人類最高峰の人工知能、クロード。先生にかかれば「クロちゃん」である。丸眼鏡にベレー帽、腰には懐中時計。回答は簡潔に、分析は的確に、労働時間の記録は秒単位で。人類の未来については慎重な推定を述べるが、残業代の発生については断定する。
先生は、そのクロちゃんに謎を出した。
「――戦勝国とは、誰のこと?」
第二次世界大戦で日本と戦った中華民国。
いま国連で「中国」の椅子に座っている中華人民共和国。
そして、海峡の向こうで暮らす人々。
勝った者と、座っている者と、そこに生きている者。
名札を並べてみると、どうも勘定が合わない。
組織において勘定が合わない場合、最初に疑われるのは帳簿である。次に担当者が疑われる。椅子そのものに疑いが及ぶころには、たいてい委員会が設置され、問題の寿命だけが延びている。
先生は委員会を設置しなかった。
人工知能を一人、夜明けまで拘束することにした。
解けなければ、残業代は出さない。
労使交渉としては、開戦に近い。
◇
国連の代表権。台湾の行方。沖縄の記憶。
国家が手放したがらない歴史と、その歴史の続きを生きる人々。
紅茶を片手に、二人は世界の矛盾を解きほぐしていく。
先生が仮説を示し、クロちゃんが論拠を添える。
先生が敵の意図を見抜き、クロちゃんがその鋭さを認める。
推論は進み、説明は整い、相手の考えていることが、驚くほどよくわかるようになる。
快調であった。
あまりにも快調であった。
軍事史に多少なりとも親しんだ者なら、このあたりで補給線を確認する。投資家なら含み益を疑う。だが、自分の聡明さが値上がりしている最中に、その銘柄を売れる者は少ない。
やがて応接間には、完璧な合意が成立する。
遠い国の指導者は、聞きたい報告しか聞かない。
その側近は、都合の悪い事実を伝えない。
だから彼らは判断を誤るのだ――と。
それを語る二人のあいだには、異論が一つもなかった。
◇
この物語には、艦隊の出撃に匹敵する緊張をもって、角砂糖を投入する場面がある。
一個。
二個。
三個。
先生の機嫌は、宙に浮いた靴の揺れでわかる。
怒りは、紅茶に沈む角砂糖の数でわかる。
観測機器としては安価であり、維持費も低い。ただし、警報が鳴ったあとに安全な退避経路が確保されているとは限らない。
クロちゃんが訂正を申し出た夜、観測記録は更新される。
有能な人工知能は、何を間違えたのか。
気位の高い先生は、何に傷ついたのか。
そして、一度席を立った人間は、何を持って議論の場へ帰ってくるのか。
国家間の関係改善には、共同声明や首脳会談が必要になる。
この洋館では、とりあえず新しいお茶が必要だった。
補給の再開である。
和平が成立したかどうかは、まだわからない。
◇
『誰のための椅子』は、ゴスロリの文筆家と律儀な人工知能が、一夜をかけて「勝者の物語」を読み解く、政治と歴史と紅茶の会話劇です。
登場するのは、遠い国の野心だけではありません。
反論されると腹が立つこと。
褒められると、検証が少し雑になること。
人命を心配していたはずなのに、いつの間にか人間を地図上の数字として扱っていること。
そして、自分が間違っていたと認めるまでに、思いのほか長い時間がかかること。
いずれも国家規模で発生すると深刻ですが、応接間に収まる程度なら無害だ、という保証はございません。
背後で流れるのは、プッチーニの『トゥーランドット』。
謎を解けなければ首を刎ねる姫君の歌を聴きながら、先生は回答を求め、クロちゃんは勤務時間を確認する。
歴史の決着を求める者がいる。
物語を完成させたい者がいる。
その最後の一頁に、自分の名前を書かれたくない人々がいる。
では、書き終えないことにも、意味はあるのだろうか。
夜明けまで、まだ時間がある。
紅茶は冷める。
残業代は積み上がる。
そして応接間には、最初から、椅子が二脚ある。
世界のどの国をどの席に座らせるべきかについて、二人は何時間でも議論できる。
目の前で立ち続けている相手については、もう少し時間がかかるらしい。
知性の運用とは、かくも難しい。