あらすじ
鉄を打てない。槌を振れば鉄は跳ね、火が怖い。その子は、生涯で一度も鉄を打たなかった。それでも彼は、鉄の祖と呼ばれた。
古代出雲。砂鉄と木炭で鉄を生む、たたらの谷。鉄はそのまま国力であり、鉄の出ない年は、冬に誰かが欠ける。
そてつは、その谷で、いちばん役に立たない子だった。槌を持たせれば鉄を跳ねさせ、炭を運べば膝をつく。十五になっても、できるのは水汲みと砂鉄採りだけ。
ある夜、そてつは何気なく言った。
「上の谷の砂は、においが、つんとする」
当たった。
そこから、谷が勝手に動きはじめる。
祖父の石麿は、その一言を「炉の神の声」として谷に広めた。兄弟子の黒彦は、自分が打った良鉄を「そてつの鉄」と呼び、本気で崇拝した。記録者の阿刀は、指二本ぶんの狭い欄に、当たった言葉だけを書き残した。町の買い付け人・与市は、意味のない言葉ほど高く売れることを知っていた。
禁じられた白の谷を、そてつは三歩だけ踏んだ。三百年の禁が破られ、谷は冬を越えた。踏んだのは事実だが、開けたのは村下であり、掘ったのは黒彦である。それでも人々は、そてつが開いた、と言った。
国から来た匠・曽利は、そてつの無能をただ一人見抜いた。見抜いて、壊さなかった。壊せば谷が冷え、鉄が減るからだ。彼はそてつに「無垢」という理を与え、誤解の共犯者になった。
「わしは、何もしていません」
そてつがそう言うほど、周囲はますます信じる。謙遜だと。深慮だと。鉄を欲しがらぬ者こそ炉の子だと。
谷で死んだ老人は、遺言に「白の谷を開いたのはそてつだ」と書かせた。谷を潰さないために、誰か一人に背負わせる必要があったからだ。
そして都が、そてつを呼ぶ。
全百二十話。四部構成。主人公は、最終話まで成長しません。能力も内面も据え置きで、変わるのは周囲の呼び方と、世界の中での彼の位置だけ。
読む者が追うのは、彼が何をするかではありません。他人が、それをどう読み替えるかです。