あらすじ
【あらすじ】
久津名市役所、市民課の窓口係・糸井千尋には、書類の名前を声に出して読んでしまう癖がある。人を番号で呼ぶのが、どうしても、うまくできない。
ある朝、窓口で押された老人の実印の朱が、薄く見えた。掠れではない。枠も文字も、彫りの線は隅まで完全に写っている。ただ、色だけが涸れている。三日後、その老人の死亡届が、千尋の窓口に届いた。
戸籍係の一戸誠が見せたノートには、この町の奇妙な死の記録があった。急な発作、事故、眠るような老衰。長患いのない、その日のうちに完結する死。年に、きっかり十四件。多い年も、少ない年もなく、五十年間、一年の欠けもなく。
薄れた印影は、順番が近い証だった。そして千尋が名前を読み上げると、書かれかけの名前は、戻る。
ただし、狂った分は、別の誰かで埋まる。
窓口係と戸籍係が、判子と、書類と、夜の数え唄だけを手に、町の下で数え続ける何かと向き合う。
【舞台】
人口三万の地方都市、久津名市。川と橋、寺町、アーケードの商店街、市街を見下ろす神社。町の下には「数えるのが好きな神様」が埋まっているとされる。社はなく、祀りも祓いもしない。数えさせておく。それだけを、町は百八十八年続けている。
公簿は神の帳の端末である。だから受理も補正も、帳への正規の申請になる。恐怖の供給源は事務手続きそのもので、正しい手続きが正しく機能した結果として人が死ぬ。血も、惨殺も、悪霊の襲撃も、一件もない。
【登場人物】
糸井千尋(24・市民課窓口係)
書類の名前を読み上げてしまう癖がある。それが力だと、自分では知らない。伏せ目が防御姿勢。読んだ翌日は、あちら側が何も読めなくなる。自分の名前だけは、読めない
一戸誠(29・戸籍係)
感情を入れれば止まってしまうから、条文の声でしか話さない。嘘はつかず、記載しないことで隠す。判定と対処のうち、対処の側
墨谷キヨ(77・給湯室)
五十年、頭の中だけで名前を書き続けた人。読み上げの力も、帳簿の技も、持っていない
戸波環(検帳士)
古文書調査、料紙鑑定。商談の顔で来て、値踏みの目で帰る。読める人だが、読まない
神原宗市(宮司)
連判状を蔵に納め、順番を差配する。怖い人ではない。そのことが、いちばん怖い
湯浅唯
数え損なわれた男。台帳に載らず、機械にのみ映り、対面でしか認識されない。二十七のまま、五十年