あらすじ

「今月は、どこに行くの」 一年待った質問なのに、わたしは答えられなかった。 宮下真穂、四十九歳。長野県松本市。小学校の給食調理員のパート。 毎日五百四十一人分の昼ごはんを作り、家では二人分の弁当と三人分の夕飯を作る。 給食室の壁に貼られた一年分の献立表には、空白の日が一日もない。 検診の再検査に、誰にも付き添いを頼めず一人で行った。結果は白だった。 その帰り道、駅前のベンチに三時間座った。誰からも連絡は来なかった。 家に帰っても「今日、どこか行ってた?」とすら訊かれなかった。 その夜、真穂は手帳の隅に五行だけ書いた。  一、月に一度、一泊だけ。  二、行き先は言わない。  三、嘘はつかない。訊かれたら、答える。  四、家のことは全部済ませてから出る。  五、必ず帰る。 歩いて二十分の駅前のホテル。一人で店に入れなかった温泉宿。 切符を買わずに二便見送ったフェリー乗り場。娘の働くカフェの窓の外。 台風で帰れなかった夜。膝が笑って下りられなかった山。何も見えないお戒壇めぐり。 そして八月、真穂は知る。母もまた三十二年前に一度だけ、同じことをしていた。 違ったのは一つだけ。母は帰ったとき、父に「どこ行ってた」と訊かれた。 三番目の決まりごとを、真穂は十か月、ただの一度も使わなかった。 誰も、訊かなかったからだ。 離婚の話ではありません。不倫も出てきません。誰も死にません。 夫は怒鳴らないし、子どもは真っ直ぐに育っている。悪い人が一人も出てこない話です。 それでも、月に一晩だけ、誰の母でも妻でも娘でもない時間がほしかった。 四十代・五十代の女性のための、静かな一年の記録。 全十四話・完結済み。本文およそ六万四千字。

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カクヨム2026/09/05
  • 現在の作品『家出の練習』