あらすじ
春から初夏へ移る春口で、相沢湊は宿の客間に目を向ける。
それは単なる応接や滞在のための部屋ではなく、人が外から持ち込んだ気配や、まだ言葉になりきらない思いを、少しずつ落ち着かせていくための場所だった。
客間では、声の高さが変わる。
帳場では用件の声になってしまう人も、客間に座ると少しずつ自分の本当の高さへ声を下ろしていく。
また、話したあとの沈黙も急かされず、その人の中へ言葉が戻っていくまで待たれる。
澄江は、何を話したか以上に、そこで人の声や沈黙がどう落ち着くかを見ていたのだった。
湊は、父にもまた、外にいるときより少し低い声で客間に座った時間があったのではないかと考え始める。
父は遅れた人、待ちが長い人であるだけでなく、客間という部屋に少し支えられながら、自分の声や気持ちを整えていた人だったのかもしれない。
一方、汐里は母の客間を守るだけではなく、その日の光、風、座布団のずれ、障子の開け方、沈黙の深さまで見ながら、“今日の客間”をその日の人のために整える人へ変わり始める。
客間は、人を慰めるだけの部屋ではなく、少し先の時間へ向く角度を静かに与える部屋だったのである。
この巻は、春口の宿において、人が「何を話すか」ではなく、どんな声で話せるようになるか、話したあとにどんな静けさを残すかを描く物語である。
そして汐里が、宿の内部のもっとも静かな時間を扱う人へ近づいていく巻でもある。