あらすじ
一九五一年、八月。シベリアの凍土から六年ぶりに生還した男――巽栄治(たつみ えいじ)は、遥かなる陸路を経て、故郷である大阪・玉造へと辿り着いた。しかし、彼を待ち受けていたのは、空襲によって灰燼に帰した生家と、あまりにも残酷な「怪異」だった。世界には、すでに「もう一人の巽栄治」が存在していたのだ。伝統ある巽呉服店の格式、戦前の商売の呼吸、そして一族が三百年の歳月をかけて築き上げてきた目に見えぬ財産――『信用』のすべて。見知らぬ男は、栄治の公的な皮膚を完璧に着こなし、新興繊維会社の若き社長として極彩色の栄華を誇っていた。己という存在を世界から完全に抹消され、孤立無援の亡霊となった栄治は、自らの人生を取り戻すため、執念深く男の正体を調べ始める。やがて、彼が辿り着いたのは、中之島の煤けた赤煉瓦倉庫。そこには、灰色の着物に袴を纏い、世俗から切り離されたような青い瞳を持つ金髪の女探偵、リンゼイ・チコウスキーが佇んでいた。奪われた名前を追う男と、すべてを霧の奥に内包する女。二人が出会ったとき、戦後大阪の泥の底から、世界を揺るがす巨大な『見えざる網』の陰謀が姿を現し始める――。湿り気を帯びた闇と狂気が交錯する、極上のゴシック・レトロサスペンス。