あらすじ
「刺繍なんて、侍女にでもやらせるさ」
婚約者のユリウス様は、針の間の戸口でそう言った。十年、一度も入ってこなかった部屋の、戸口で。
この国の公文書に蝋印は使わない。家紋を刺した「封布」を書類に縫い留め、その針目で真贋を証す。刺し手は一家に一人だけ、王立照合院の台帳に名前で登録される。レヴィナス公爵家の登録名は、十二の年から、シルヴィアだ。
シルヴィアは婚約破棄を承諾し、規則第十七条どおりに退任した。現行の封布百三十一枚すべてに、無効の返し針を入れて。
やがて公爵家の書類は一枚も通らなくなる。ユリウス様は言う。「マリエルのほうが上手いんだ。照合院が意地悪をしている」と。
上手であることは、求められていない。
求められているのは、十年、同じであることだ。
――他家の紋ばかり刺してきた三女が、はじめて自分の紋を持つまでの話。