あらすじ
東京には、誰にも知られないまま育つ恋がある。約束もなく、名前さえ知らないまま朝だけを重ねる関係がある。本書『朝が恋になる』は、そんな静かな時間だけを描いた恋愛小説だ。
舞台は東京・勝島。運河を渡る風と眠りきらない街の気配が毎朝の始まりをそっと包み込む中、書店員の八雲 詩は、出勤前に立ち寄るコンビニでいつも同じ男性の背中を見つける。
相手の名は水守 律。文具メーカーで商品企画を担当し、人の暮らしに寄り添う道具を考えながら、自分の本音だけを胸の奥にしまい続けている。詩もまた、人の心に寄り添う本を選ぶことができるが、自分の感情だけを最後まで読み違えてしまう。
交わす言葉は少なく、笑顔も控えめで、約束をすることもないが、姿が見えない朝には世界の輪郭が少しだけ静かに欠けてしまう。
恋とは劇的な出来事から始まるものなのだろうか。この作品が注目するのは、紙コップの湯気や自動ドアの音、何気ない挨拶の積み重ねによって、少しずつ形を変えていく感情だ。本人でさえも恋だと気づかない時間が物語の中心にある。
近づけば近づくほど本音は遠ざかり、失いたくないから踏み込めず、壊したくないから笑ってしまう。その矛盾を抱えたまま積み重なる朝が互いを少しずつかけがえのない存在に変えていく。
この物語には大きな事件も、運命を揺るがす奇跡も、世界を変える偶然も登場しない。だからこそ読者は、自分が通り過ぎてきた朝や言葉にできなかった想いを静かに思い出すのだ。
『朝が恋になる』は、恋人になる瞬間を描く物語ではない。恋と気づくより先に、誰かがいる朝を愛してしまった心の軌跡を描く物語である。読み終えた後、見慣れた朝の景色が昨日より少しだけ優しく見えることを願っている。