あらすじ
預かった鍵の山谷を蜜蝋へ写す錠前師イングリッドは、その癖を「客前でみっともない歯型遊び」とネイサンに笑われ、婚約も工房も失った。辺境の山荘で臨時職人となった彼女は、無愛想な侯爵ルカーシュが用意した温かい三食も、鍵の掛かる私室も、腕を買われた職務上の厚遇だと思っていた。
ところが火災が起こり、ルカーシュが施錠された書庫の奥に取り残される。正鍵へ続く廊下は炎の中。頼れるのは、熱で軟らかくなり始めた蜜蝋歯型控えだけだった。
「一山、二谷、三度寝禁止」
傷つく指で合鍵を削り出した彼女を待っていたのは、ネイサンの評価訂正と復職の申し出、そして侯爵が差し出す二本の鍵。
「二本目はどこの錠ですか」
「私室だ」
「夜間修理用ですね?」
求婚を業務命令だと思い込む錠前師と、ついに声を上げて笑った侯爵の、すれ違い婚約寸前のお話。