あらすじ
誰も嘘をついていない。ただ、正しく書かれた一文が、次へ引き継がれなかった――。
2026年11月、台湾周辺での断続的な通信障害や港湾の混雑、中東や欧州東縁部での緊張が重なり、各国の危機管理リソースは限界に達していた。
日本の国家危機評価センターの分析官・真鍋が、初期メモの脚注に「表現簡素化」のために置いた一文――「現時点で確認された兆候は、直ちに越境的拡大を示すものとは評価し難い」。
当初は限定的な暫定判断に過ぎなかったその言葉は、同盟国との情報共有、NATO資料、民間保険会社の判断、そして共同声明の調整過程へと孫引きされ、やがて「安全の根拠」として一人歩きを始める。
文言の過度な一人歩きと複合危機の兆候に気づいた真鍋は、評価の訂正メモを送信する。しかし、その添付ファイルは台湾沖の通信障害やシステムの権限エラーに呑み込まれ、官僚機構の「平仄合わせ」の中で摩耗し、消失していく。そして、破滅の足音は静かに現実のものとなり――。
本作は、公文書、実務メモ、送信ログ、会議要旨といった無機質な記録の束のみで編まれた実験小説です。出来事そのものではなく、「危機を記録する言葉が組織の中で平準化され、現実が失われていく過程」を冷徹なリアリズムで描く、新時代の官僚制サスペンス。