あらすじ
嵐は夕方から始まっていた。
海から来た風が、美良荘の石壁に真横から叩きつけている。四階建ての建物は明治のもので、灯台守のために建てられたときから、この向きの風を受けることを前提に設計されていた。だから壁は倒れない。ただ、二号室の窓だけが、押し込まれるたびに小さく鳴った。
白瀬渚はその音を三十分ほど聞いていた。
机の上にカメラバッグが置いてある。明日の朝の船に乗るために、もう詰めてあった。レンズが三本、予備のバッテリーと防湿剤。その横にノートが開いたままになっている。この三日間で書き足された文字が並んでいて、そのうちの一行だけが二重に線を引かれていた。
彼女はペンを取り、少し考えて、また置いた。
隣のベッドでは親友が眠っている。夕食のときにワインを飲みすぎた。起こさないほうがいいと渚は思った。話すのは本土に戻ってからでいい。証拠が揃ってからでいい。
窓の外は何も見えない。海があるはずの方向が、ただ黒い。
深夜零時を少し回ったころ、ノックが二回した。
乾いた、遠慮のある音だった。
「白瀬さん」
低い声が、ドアの厚みを通して届く。
「さっきの話、いいかな」
渚は動かなかった。数秒して立ち上がり、鍵を回した。
廊下の照明は夜間の設定で落ちている。開いた隙間から見えるのは輪郭だけだった。肩の高さ。少しだけ傾いた首。片手がポケットに入っている。
彼女は、その輪郭をなぞった。
「どうぞ」と、渚は言った。
ドアが閉まった。
廊下には、誰もいなくなった。
嵐は明け方まで続いた。
午前七時十分、朝食の支度のために三階から降りてきた管理人が、二号室のドアが半分開いているのを見つけた。窓も半分開いていた。カーテンが、海に向かって外へ吸い出される。
白瀬渚は二十四歳だった。写真を撮る人だった。人をよく観察する人だったと後に親友は語っている。
警察は外部からの侵入を疑った。宿泊客の一人が、深夜に桟橋のほうから船のエンジン音を聞いたと証言したためだ。船は見つからなかった。犯人も見つからなかった。三週間後管理人が自室で死んだ。睡眠薬と酒。タイプライターで打たれた遺書。自殺として処理された。
事件は「美良荘事件」と呼ばれ、三か月で報道から消えた。
そして七年が過ぎた。
七年後の四月、七通の招待状が発送される。