あらすじ
慶応三年。
幕府の行く末さえ、まだ誰にも見えていない冬。
東北の小藩・水枝で、雪の河原に一人の青年が倒れていた。
名は、戸ヶ崎弦。十八歳。
「広島から来た」とだけ答え、家も父母の名も語ろうとしない。
青年を預かったのは、水枝藩の記録奉行・岩井久馬だった。
久馬の仕事は、戦うことではない。
届いた報せのどこまでが事実で、どこからが人の判断なのかを分け、外へ渡す言葉を決めることだ。
やがて鳥羽・伏見の敗報が届き、奥羽にも戦の気配が近づいてくる。
若者を戦へ出すべきか。
誰の名を記録へ載せるのか。
命令した者の責任を、どこへ残すのか。
そして弦は、若者たちが死地へ向かおうとする水枝で、ただ一つのことに激しく反応する。
「帰らないこと」を、立派だと言うことに。
一人の青年の来訪と、一人の記録奉行の小さな判断。
それはやがて、水枝という名もない小藩の運命を、誰も予想しなかった場所へ導いていく。
――歴史を動かすのは、英雄だけではない。
これは、名を残す者と、名を守る者たちの物語。