あらすじ
神谷直人が法科大学院を卒業し、司法試験に集中できるように、私は駅前のガールズバーで三年間、夜のシフトに入り続けた。
その後、直人は司法試験に合格し、司法修習を終えて弁護士登録をした。今では汐浜市にあるそれなりに規模の大きい総合法律事務所に勤め、企業法務や民事事件を中心に扱っている。地元でも少しずつ名前を知られるようになっていた。
私はとっくにガールズバーを辞め、汐浜駅東口にあるワインバーで働いていた。接客だけでなく、酒類の仕入れや取引先との調整、ワインの販売まで任されている。
あの夜、常連客の一人が酔った勢いで、私を倉庫へ続く従業員用の通路に追い込んだ。大河内という飲食関連会社の社長だった。横をすり抜けようとすると腰をつかまれ、壁際へ引き寄せられた。振りほどこうとした私の胸にまで手を伸ばし、もみ合ううちにブラウスのボタンが二つ飛んだ。
物音に気づいた店長が駆けつけ、ようやく大河内は手を離した。翌日、店長と一緒に防犯カメラの映像を確認し、該当部分を別に保存してもらった。警察から求められれば、映像も従業員の証言もすべて提供すると言ってくれた。
私はその資料を持って、直人の事務所へ向かった。
「直人、警察に行こうと思ってる」
映像を見終えた直人は、眉を寄せた。
「ほかに怪我は?」
「手首が少し痛いくらい。目立つ怪我はないよ」
直人はしばらく黙ったあと、法律相談の受付票を私に差し出した。
「今日は予約が全部埋まってる。とりあえず資料を事務局に預けて、相談の時間を取ってもらって」
私は受け取らなかった。
「ほかの弁護士に相談しに来たんじゃないよ」
「わかってる。でも、ここは法律事務所だ。千晴が俺の妻だからって、所内の手続きを飛ばすわけにはいかない」
結局、私は資料を持って受付へ向かった。
午前十一時、事務局のスタッフから待合スペースで待つように言われた。正午近くになってようやく一人の職員が出てきたので、私は立ち上がった。
「神谷さん、申し訳ありません。前のご相談がまだ少しかかりそうです」
そう言ってから、彼女は私の後ろにいた女性へ視線を移した。
「白石玲奈さんですね。神谷先生から伺っています。身の安全に関わる案件ですので、緊急対応になっています。こちらへどうぞ」
私はその場で動きを止めた。
白石玲奈。直人が大学時代に付き合っていた女性だった。
相談室のガラス壁には、ブラインドが完全には下りていなかった。玲奈は中へ入ると、椅子の横で少し立ち止まった。
「千晴さんの相談、後回しにならない?」
直人は彼女のために椅子を引いた。
「玲奈のほうが緊急性が高い。千晴ならわかってくれる」
私は手の中の受付票に目を落とした。
直人が初めて司法修習のためのスーツを着た頃、私たちは二十平方メートルにも満たない古いワンルームで暮らしていた。あの部屋で、直人は私を抱きしめ、弁護士になったら二度と千晴を一人でつらい目に遭わせないと言った。
今、彼は本当に弁護士になった。
私は被害の証拠映像を抱えたまま、夫の法律事務所の外で、いつ自分の番が来るのかわからない相談を待っていた。