あらすじ
《朝は朝だった。》
その一文に、三倉文乃は久しぶりに腹を立てた。
「まず、この朝から処分します」
本は読めない。自分の小説も書けない。
なのにその日、赤ペンだけが動いた。
原稿を持ってくるのは、訪問看護師の佐伯。
「心を開店しないでください」
「開店?」
「そういうところです」
彼が書く。
文乃が赤を入れる。
母は味噌になり、夜は必要以上に夜らしくなり、
たった一文をめぐって、今日も容赦のないやり取りが始まる。
笑ってしまう日もある。
どうしても読めない日もある。
赤を入れている途中で、言葉の向こうに何かが見える日もある。
けれど文乃は、その理由をうまく言えない。
佐伯も、聞かない。
机の上に残る原稿。
書きかけの一文。
使いかけの赤ペン。
なくしたはずのものは、案外、なくした場所とは違うところから帰ってくるのかもしれない。
書けない小説家と、原稿を書き続ける訪問看護師。
笑って、赤を入れて、ときどき立ち止まる。
その先で――彼女の物語はもう一度、息を吹き返す。