あらすじ
アパレル店員の俺は、客だった藤堂咲に、使い慣れた口説き文句として「月が綺麗ですね」と送信する。相手に合わせ、もっとも効く言葉を選ぶことは、俺にとって接客と同じだ。嘘をついたつもりはない。けれど送信から三秒後、天井を破って直径二メートルほどの月が部屋へ落ちてきた。
月は俺にしか見えず、写真にも写らない。管理会社も消防も、通報すれば精神病扱いされるだけだという。途方に暮れる俺のもとへ、隣人の古閑が鍋を抱えて現れる。彼の部屋にも三日前から月が落ちているというのだ。古閑は、月を消すには「本音を言う」しかないのではないかと語る。
俺は大学時代の友人に感謝を伝え、藤堂に軽薄な言葉を送ったことを謝り、嫌いな店長への悪口を口にする。しかし月は微動だにしない。どの言葉も本当だったはずなのに、言ったあとには自分が少し楽になっていた。俺は、人に何かを伝えるたび、自分の評価を上げたり、気分をよくしたり、次に使える話を手に入れたりしてきたのだと気づく。
古閑は、十二年連れ添った元妻に連絡した理由を打ち明ける。復縁したかったのではない。返事が来ないことで、関係が終わったと確かめ、自分が安心したかっただけだった。相手へ向けたように見せかけて、彼女を自分の都合に使おうとしたのだ。その告白とともに、古閑の部屋の月は消える。
俺もまた、古閑の痛ましい話を「面白い」「誰かに話せる」と考えて聞いていたことを認める。言い訳も取り繕いもせず、「今、面白いと思ってました」と古閑の背中へ告げた瞬間、俺の部屋の月も消えた。元通りになった部屋で、俺は隣人が残していった冷めた鍋を食べる。窓の外には、遠く小さな本物の月が浮かんでいる。