あらすじ
雨は、すべてを拒絶するように冷たく、どこまでも深く降り続いていた。
二〇二六年、九月の真夜中。都内郊外の建設現場。高所の足場を濡らす泥水の上で、二十五歳の作業員――ヒカルの命は、途切れた糸のようにあっけなく潰えた。 連続勤務四十時間を超え、濁った意識の中で彼が最後に見たのは、夜空の暗闇ではなく、二十年前に自分を抱きしめてくれた女性の、温かな笑顔の幻影だった。
(……あぁ、これで……暗い押し入れに入らなくて、すむ……)
叩きつける雨音の中に、かすかな落下の衝撃が消えていく。
数時間後。現場からほど近い、家賃数万円の足の踏み場もない木造アパート。 万年床とコンビニの袋が散乱する室内を、二人の刑事が捜索していた。五十代半ばのベテラン刑事・山下と、三十代前半の若手刑事・佐藤である。
「山下さん、これ……引き出しの奥から出てきました。鍵がかかっていましたよ」
佐藤が差し出したのは、ビニール袋で何重にも厳重に密閉された一冊の「ボロボロの幼稚園連絡帳」と、その中に挟まれたクレヨンで原形をとどめないほどぐちゃぐちゃに塗りつぶされた「黒塗りの絵」だった。
「連絡帳……? 現場で落っこちた事故死の男の部屋に、なんでこんなものが……」 「佐藤、お前……二十年前の『あの事件』を知っているか?」
山下は連絡帳のビニール袋を慎重に外し、黄色く変色したページを指で撫でながら、煙草を吸いたそうに目を細めた。
「二十年前の事件……ですか?」 「都内高級ホテルで開かれた、あの全国生中継の緊急記者会見だ。虐待と不正を告発した、当時五歳だった子ども……名前は、輝(ヒカル)。あの事件の主役だった少年だよ」 「えっ……あの虐待会見の男の子ですか!? じゃあ、この事故死した作業員が……?」 「そうだ。……どうやら二十年前の時計の針は、止まっていなかったらしい。……この黒塗りの絵と連絡帳が、すべての始まりだ」
山下の低い声とともに、濡れた記憶の扉が静かに開かれた。