あらすじ
ボスニア・ヘルツェゴビナ・モスタルを舞台にした20代30代女性向け国際恋愛の短編小説。
前後編で完結する読み切り作品です。
29歳の日本人女性・マヒロは、勤めていた生活雑貨メーカーを辞め、三か月かけてバルカン半島を巡っている。
旅行がしたかったからではない。
東京で十年間、「次に何をすべきか」を決め続けてきた彼女は、退職後に別会社へ移るのか、以前から考えていた小さな輸入雑貨店を始めるのかを決められないまま、人生で初めて予定を空白にした。
九月初旬、旅の途中で立ち寄ったモスタル。
エメラルド色のネレトヴァ川に架かる白い石橋スタリ・モストを渡ろうとした朝、マヒロは旧市街の店先で、ひとつの青いガラスのブレスレットを手に取る。
店員に値段を聞こうとした瞬間、隣から男がボスニア語で何か言い、商品を彼女の手から取り上げた。
「それ、売り物じゃない」
英語でそう告げたのは、32歳のネディム。旧市街で叔母の工芸店を手伝いながら、石造建築の保存修復に携わる職人だった。
感じが悪い。
ところが数分後、彼は謝りに戻ってくる。
「あれは僕が直してる途中だった。あなたが悪いんじゃない」
そしてなぜか、ブレスレットの代わりに「観光客がほとんど通らないモスタル」を一か所だけ見せると言い出す。
一か所が二か所になり、コーヒー一杯になり、夕暮れまでになる。
橋を何度も渡り、石畳を歩き、銅を打つ音を聞き、同じテーブルでボスニアコーヒーを飲むうちに、マヒロは気づく。
ネディムはこの街を愛している。
けれど彼自身もまた、ここに残るか、サラエヴォの大きな修復会社へ移るかを決められずにいる。
「決められない女」と「決めない男」。
似ているようで、二人はまったく違った。
マヒロには旅の続きがある。ネディムにはここで続いている生活がある。
それでも二人は、翌朝もなぜか同じ橋の近くで会う。
恋人になる約束など、ひとつもしていないまま。