あらすじ

初夏がさらに進み、青葉の光と影が濃くなるころ、相沢湊が見つめるのは宿の廊下である。 廊下はただ部屋と部屋をつなぐ通路ではない。 客間で落ち着いた声、庭から来る光、門へ向かう足取り、帳場へ戻る気配――そうしたものを少しずつ次の場所へ運び、人を“次の部屋へ入れる自分”へ戻していく場所だった。 客間を出た人は、すぐ次の場所の人にはならない。 廊下を歩くあいだに、足音が深くなり、歩幅が自分のものへ戻り、曲がり角の光や青葉の影がその移り目をやわらかく支える。 ときには客間で言えなかった一言が廊下でぽつりと零れ、ときには部屋で言えたことが廊下へ出たとたん静けさへ変わる。 廊下とは、人がなお少し変わり続ける“途中の場所”だったのである。 湊はそこで、父をまた新しく見直す。 父は客間に少し低い声を残した人であると同時に、廊下で自分の歩幅へ戻るのが少し遅い人だったのかもしれない。 宿の中の途中の時間に少し支えられながら、次の場所へ向かっていた人として、父の像がさらにやわらかく具体を持ち始める。 そして汐里もまた、廊下を掃除し整えるだけではなく、その日の光と影の加減を見て、客間の余韻をどこまで残し、どこから次の場所へ渡すかを決める人へ変わっていく。 彼女は、宿の部屋を守る人から、場所と場所のあいだを流れる時間そのものをあずかる人になり始めている。 この巻は、人が一つの場所だけで変わるのではなく、部屋と部屋のあいだを渡りながら少しずつ自分へ戻り、次の場所へ向かっていくことを描く物語である。 春口という町と宿の細やかなやさしさが、最も静かに現れた巻でもある。

連載情報

ウェブ小説

配信言語
小説を読もう
小説を読もう2026/09/14
  • 現在の作品潮待ちのレール ― 青葉の廊下 ―