あらすじ
明治十九年の夏、大阪・堂島川の川辺で、船問屋「藤田屋」の一人娘、お富は、旅廻りの芸人・神原吉之介と出會ふ。
二十二歳の吉之介は、もと松江藩士の家に生れた身であつたが、維新によつて家も身分も失ひ、三味線を手に諸國を渡り歩いてゐた。一方のお富は、繁昌する船問屋の娘として、家と商いのために定められた道を歩むことを求められてゐる。
川面を行き交ふ舟を眺めながら、二人は折々に言葉を交はす。互ひに何かを約束したわけではない。ただ、夕暮れの川辺で顔を合はせることだけが、いつしか二人にとつて忘れがたいものとなつて行つた。
しかし、お富には家の定めた縁談があり、吉之介にもまた、ひとところに留まることのできない身の上があつた。
やがて吉之介は深く思ひ詰め、ひとり姿を消さうとする。異変を察したお富は彼を探し當て、ただ一言、彼の名を呼ぶ。そして、何も問はず、その傍を離れなかつた。
その後も二人の間には、越えられぬ身分と時代の壁が殘る。やがて吉之介は再び旅に出、お富もまた家の定めた人生を歩むことになる。
幾年もの歳月が流れた後も、堂島川には夕汐が滿ちて來る。人の心も、時代も、過ぎ去つてしまつた。ただ、あの夏の夕暮れだけが、川面のどこかに今も殘つてゐるやうであつた。