あらすじ

ズウン、と地の底を揺らす重低音が響いた。雷ではない。南の地平で炸裂した、ソ連軍の重砲の咆哮だ。 豪雨に打たれる満州の夜陣。北側には暗闇に沈む原生林が黒々と立ち塞がり、南からは敵の戦車群のエンジン音と砲撃の閃光が迫っていた。 「……動け! 動いてくれ、頼むから動いてくれ!」 南条技術曹長の絶叫は、叩きつけるような土砂降りの雨にかき消された。 森の入口まであと百メートル。だが、九四式軽装甲車の履帯が満州の深い泥を削り取り、空転するたびに黒い泥水を周囲に撒き散らす。焦げ付くエンジンオイルの異臭と、兵士たちの泥と汗が混ざり合った匂いが、狭い車内に充満していた。 「大尉殿、もう限界です! トランスミッションがいかれています! このまま泥にハマり込んでいては、森へ逃げ込む前にソ連の戦車旅団に踏み潰されますぞ!」 南条がハッチから半身を乗り出し、泥と油で真っ黒になった丸眼鏡を力まかせに拭った。その手首はガタガタと震えている。 「爆破しましょう! 軽装甲車を捨てて、徒歩で北の森へ逃げ込むんです!」 「ふざけるな南条!」 泥まみれの草むらから、九六式軽機関銃を抱えて跳び込んできた男がいた。志村拓二中尉だ。軍帽を失った坊主頭に泥をこびりつかせ、濁った目には怒りが燃えている。 「この装甲車には重機関銃も補給用弾薬も積んであるんだぞ! 兵器を敵の目の前に投棄して森へ逃げ込むだと!? 恥を知れ! 押せ! 森まで死んでも押し切るんだ!」 「中尉どの、感情論じゃ泥は硬くなりません! 現実を見なさい!」 「黙れ! 逃げ腰の技師が!!」 「――二人とも、口を閉じろ」 助手席の桑原毅大尉の声は、怒号と砲声の中でも不気味なほど低く、通りやすかった。 桑原はハッチの縁に手をかけ、暗闇の先を見つめた。後方で殿を務める兵士たちが、八九式擲弾筒と三八式歩兵銃で牽制射撃を続けているが、敵の包囲網は確実に狭まっている。 「南条の言う通り、歩兵だけなら森の中へ身を隠せる。だが志村の言う通り、この装甲車を失えば我々の火力と予備弾薬は半減し、森の中で包囲されたらおしまいだ」 桑原はハッチを叩き、泥にまみれた兵士たちを見渡した。 「全員、聞け! 履帯の下に束ねた枝を敷け! 軽機関銃は森の境界へ向けて交互に後退射撃! 装甲車を森の遮蔽まで押し込むぞ!」 極限の緊張が、現場を支配した

連載情報

ウェブ小説

配信言語
小説を読もう
小説を読もう2026/09/11
  • 現在の作品赤土の孤軍