あらすじ
会社の慰労パーティーで、神谷システムの会長夫妻は、私の妹――水野美咲の手を親しげに握っていた。
「本当にきれいなお嬢さんね。拓海がしょっちゅうあなたの話をするのも分かるわ。いつか本当に家族になってくれたら、私たちも安心なんだけど」
五年間、社内では交際を隠してきた恋人の神谷拓海は、美咲を見ながら笑っただけだった。訂正することも、私のほうを見ることもなかった。
一方、三か月近く深夜まで働き続け、ASTERを企画書一枚の段階から会社最大のプロジェクトに育ててきた私は、会場の隅でスタッフを手伝っていた。開始直前にサービス担当者が一人抜け、運営が回らなくなったため、たまたま私がワインのボトルを預かっていただけだった。
それでも、拓海と美咲を囲んで社員たちが祝福している中に立っていると、私だけがこのパーティーとは何の関係もない人間のようだった。
しばらくして、私は社員用の休憩室で拓海を呼び止めた。
「さっき、どうして何も言わなかったの? 私が彼女だって分かってるよね。お母さんはみんなの前で、美咲を将来あなたと結婚する相手みたいに扱ってた。それでも黙ってるつもり?」
拓海は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、何でもない話でもするようにキャップを開けた。
「美咲は入社したばかりだし、いきなりASTERに入ったことでよく思ってない奴もいる。親父と母さんに気に入られてるって分かれば、社内でも変に当たられなくなるだろ。美咲は澪の妹なんだし、俺が助けるのは澪を助けるのと同じだよ。ASTERの第二フェーズが落ち着いたら、俺たちのこともちゃんと話す」
その言葉を聞くのは初めてではなかった。五年前、付き合い始めた頃には「会社を立ち上げたばかりだから」と言われた。三年前には資金調達が大事な時期だから、もう少し待ってほしいと言われ、一年前にはASTERの立ち上げが終わるまでと言われた。
いつも、あと少しだった。
休憩室の外から、美咲の声がした。
「拓海、お父さんたちが呼んでるって。取引先の人もほとんど来たみたい」
私に向けていた苛立った表情が、声を聞いた途端に少し緩んだ。
「分かった。すぐ行く」
拓海は私の横を通り過ぎた。廊下では美咲が待っていて、そのまま二人並んで会場へ戻っていった。
私はしばらくその背中を見つめたあと、スマートフォンを取り出した。
LINEには、三か月前から返事をしていない相手がいた。
東雲テクノロジーの社長、朝比奈修司。
三か月前、彼から転職の誘いを受けた。
あの時は断った。
けれど今は、迷わなかった。
「朝比奈社長。以前お話しいただいた件、お受けします」