あらすじ
娘の結衣が四十度の熱を出した夜、私は夫の高瀬圭介に二十七回電話をかけた。
一度も出なかった。
どうしようもなくなって、子どもの絵画教室で知り合ったママ友の橘沙耶さんに連絡した。沙耶さんの息子の陽翔も熱を出していたのに、結衣の具合が悪いと知ると、すぐに車を出して青凪総合医療センターまで来てくれた。
結衣が処置室で点滴を受けている間、沙耶さんは熱の下がった陽翔を寝かしつけると、疲れたように笑った。
「真帆さん、あの人ほんと変なの。陽翔が『オーロラを見たい』って言っただけで、次の連休のフィンランド行きの航空券もホテルも予約しちゃって」
「そこまで?」
「そうなの」
沙耶さんは苦笑した。
「陽翔、甲殻類アレルギーあるでしょ?」
「うん」
「病院の栄養指導にまで一緒に来たのよ」
「え?」
「今じゃ自分でアレルギー対応食まで作ってる。私より神経質なくらい」
一瞬、言葉を失った。
結衣も誕生日が来るたびに、一度でいいからオーロラを見てみたいと言っていた。
圭介の答えは、いつも同じだった。
「会社が落ち着いたらな」
その「いつか」は、もう五年も来ていない。
沙耶さんが突然、廊下の向こうへ手を振った。
「ほら。噂をすれば、また来た」
保温バッグを手に、こちらへ急いでくる男がいた。
顔が見えた瞬間、息が止まった。
沙耶さんの息子をフィンランドへ連れていこうとし、アレルギー食まで覚え、父親のように世話を焼いている男。
それは、私の夫だった。
高瀬圭介。
一時間前、秘書からは「社長は今夜、緊急の会議で会社を離れられません」と聞かされていた。
駆け寄りもしなければ、問い詰めもしなかった。
ただバッグの中へ手を入れ、数日前に弁護士へ相談した時にもらった離婚関係の資料に触れた。
圭介。
そんなに他人の子の父親になりたいなら、もう止めない。