あらすじ
祖父が危篤となり、三十四歳の俺は入院・介護に必要な書類のため、実家へ実印を探しに帰る。祖父の押入れで見つけたのは、三十一年にわたり書き溜められた二百七通の、宛名も差出人もない手紙だった。日付だけが記された封筒には、家族の出来事や日々の記録が淡々と綴られている。俺はもっとも重い一箱を病院へ持ち込み、母と叔父とともに読み始める。
意識不明の祖父は高熱と感染症で容体を悪化させており、翌朝までに、呼吸状態が悪化した場合の人工呼吸器など延命治療について家族の意思を示さなければならない。医師は、本人の希望を記した文書があるなら見せてほしいと告げる。手紙を読み進める三人は、そこに母の手術、孫の運動会、飼い犬の死など、祖父が家族を気にかけ続けていた痕跡を見つける。しかし八年前を境に手紙は急増し、同じ出来事が何度も、少しずつ短く書き直されていることに気づく。祖父は記憶の衰えを自覚しながら、忘れていく家族の記憶を手紙に留めようとしていたのかもしれない。
さらに七年前の束から、祖父自身が記入した「私の医療に関する希望」という事前指示書が見つかる。蘇生や人工呼吸器、栄養摂取について細かく意思が書かれている一方、肝心の署名欄だけが空白だった。母は祖父の筆跡を真似て署名を書こうとするが、俺はそれを止める。名前を書くことは、他人の人生の決定を自分が背負うことだと知っているからだ。
翌朝、俺は署名のない指示書と、手紙の通数の変化を示す記録を医師に差し出す。「これだけで祖父の意思が確定したとは言えない。だが、書かれている考えを見なかったことにはしたくない」と伝える。家族は祖父の代わりに決断する責任と向き合うことになる。病室に戻った俺は、未読の手紙を残した箱を結び直す。内容は変わらないのに、箱は来たときより重く感じられた。